【仙台から帰還しました】
被害にあわれた方々、大変な苦痛を強いられ、
誰にも当たることもできない状況であることをお察しします。
そして尊い命を亡くされた方々へ心よりご冥福をお祈りいたします。
東京をはじめ、東日本は誰もが信じられない一瞬を経験した。
私も日本海中部地震を修学旅行の青函連絡船の上で経験したが、
こんなもんではなかった。
仙台にはすぐには行けなかった。
なんせ、関東地方もそれどころではなかった。
3月17日の夜の12時呼ばれた。
「仙台に行くことが決まった。」
「関東地区は何とか見えてきたから・・・大丈夫」
翌早朝、東京から仙台への燃料他、食糧物資を運ぶ便に飛び乗り、
仙台入り。
この時期は、原発が非常にやばい状態であり、
会社は東北道の迂回を進めた。
無論、そんな選択はしない。
那須高原→国見SAまでは一気に駆け抜ける。
息を止めて・・・なんてね。
当日は到着して、様子を見ることが精一杯。
正に、踊る大捜査線状態。
戦場を知らないが、戦場という表現がピッタリ。
先入りしているメンバーも疲労の顔が浮かんでいました。
私の任務は、多数ある避難所で通信手段の確保ができるように
小型の衛星設備を背負い、避難所へ設営に行く部隊の先発隊隊長役。
すでに、大型の特殊車両による移動基地局は数か所に、
他事業者より先発して、一番に立ち上げた。
さて、向かった先は牡鹿半島鮎川地区、
石巻経由で向かう。
道中は、ガソリン給油のための渋滞。
毎晩徹夜で並んでいる。
長いと3キロくらいは並んでいる個所もある。
仙台市内は10日たっても一向に改善されない。
コンビニも、カラスに段ボールや新聞を張り、
見えないようにして、どこもかしこも閉店状態。
市内のダイエーには毎朝、買い出しの為の長蛇の列ができ、
ガソリンがない人は、はるばる歩いてきてるのではないかと思われる。
ガスも見通しが立ていなかった。
帰る頃には新潟からの天然ガスを引っ張る事が出来た。
ホテルはお湯が出ない。
暖房もつかず、かろうじてトイレの水が流せる状態であり、
ビジネスホテルでも、電気と水が使えればマシなほう。
今回は
いつもの普通がドンナに幸せなのか。
本当に身にしみてます。